塵芥録

思っていることをうまくことばにしていきたい

身辺雑事

この間の更新から一か月がたった。進学関係の諸事に追われていたのが理由と言えば理由になる。

院試には合格していた。自分でもどの点が評価され入学を許可されたのかよく分からない。合格発表の翌日に指導教員の先生と話す機会があったが、「面接は全然答えられなかったねえ」とやっぱり苦笑していた。筆記試験の点でカバーが効いたのだろうか。とりあえずあと2年間は研究生活が続くことになった。

当然考えなければならないのは修士課程修了後の進路だ。

博士課程の先輩の話によると、修士の後は断然就職した方がいいとのこと。確かにポスドクの悲惨な現状を見聞きしていると、博士課程進学は安定した生活を自分から放り投げるようなものだし、何より博士課程在籍中に相応の成果が求められる現状ではかなりの負担を強いられるのは想像に難くない。修士課程を経験してから進学か就職か決める、なんて呑気に構えていることも出来ないので(就活するなら今の時期くらいから動いておかないといけない)、すでに追い詰められた気分で修士課程を待ち受けているのが現状だ。

 

現実逃避、という訳ではないが、最近は西洋音楽にはまり始めている。俗にいうクラシックは好んでよく聞いているが、実のところ作品の構成がどうとか作曲者の意図がこうとかという点については全く無頓着で、ただメロディーが好みだからというレベルで聞いているにすぎない。所詮素人だから音楽への親しみ方はその程度でいいかもしれないが、やはり知っているのと知らないのでは作品の受け取り方に大きな違いがある。そこで音楽史や楽典(特に西洋音楽)について個人的に勉強することにした。初めて見ると面白いもので、特に音楽史については歴史の展開とかなり密接な関わりがあることが認識でき、作曲時の歴史的条件が作品に与えた影響、という点から鑑賞するのも楽しいかもしれないと最近は考えている。まあ素人の勘繰りほど危ないものはないのだが。

院試の口述試験が終わった(ダブルミーニング)

 書けば多少は気が楽になるかと思って書きます。

今日は院試の口述試験があった。うちの大学は筆記試験合格者のみが口述試験を受けられるシステムなので、実質二次試験である。事前に提出した課題論文について試問するのが主な試験内容だった。

結論から言おう。本当に最悪だった。質問してきた四人の試験官のうち最初の三人についてはなんとか乗り切ったが、最後の試験官への応答は目も当てられない悲惨さだった。まず質問の意図と意味を十全に理解できない。当然応答もしどろもどろとなり、意味をなさない単語の羅列となって口からこぼれ出てくる。同じ単語を繰り返すようになる。これじゃまずいと思って黙る。静寂の時間が長引いていく…と、こんな具合に次々悪い方向へ転んでいき、最終的には「これからしっかり考えてください(笑)」と切り上げられる始末。卒論の主査だった先生も苦笑していた。自分の無能さが露呈されているようで、それを取り繕ろおうとして結局更に醜態を晒すばかり。哀れを通り過ぎて滑稽ですらある。

こうなった原因は畢竟勉強不足と論理的思考力の欠如という点に尽きるのだが、よしんば受かったところでこの程度のレベルの内部生が大学院に進学してよいのだろうかという疑念も頭をもたげる。院試が院での学問的生活に耐えうるかどうかを量る知的耐久度試験であるとするならば、まちがいなく全受験者の中で自分は脆弱度第一位であろう。進学するだけの能はもたず、かといってここまできて今更退路はない。いったい自分はどうすればいいんだ?文系既卒とかシャレにならないぞ…

 

ああ思い返すだに恥ずかしい、慚愧、慚愧、慚愧、今自分を占めることばはこれを除いて他にない。安易に院進を選択したのがそもそもの間違いだったか?自分は学問をすることに耐えられるのか?逡巡してもどうしようもないことは端から承知だが、これからのことを思うと不安しかわかない。

とにかく院試の日程はすべて終わった。結果を待つのみとなったので落ち着く時間はある。口述試験のことを忘れるための時間が、今はひたすらに欲しい。

 

アメリカ人のパリ憧憬について

プラダを着た悪魔』では脇役の女性がやたらパリに行きたがっていたのが印象的だった。彼女はファッションデザインに携わっていたから、パリに憧れるのは当然かもしれない。しかしそれを差し引いても映画の背後にはアメリカ人が一般に抱えるパリ憧憬というものがあるのではないか、と思えてしまうのである。

この憧れが何に起因するのか、とかアメリカ人に限らないのではないか、とか細かい点は全然考えていないのでただの思い付きにすぎないが、アメリカ人にとってパリが特別な存在であるように思われるのは自分だけだろうか。

『パリのアメリカ人』というタイトルの映画があったが、これも背後にパリ憧憬があるのではないか。この辺のことは考えがまとまったらもう一度文章にしてみたい。

誰か米仏の文化的関係について本を書いている人いないかな…

映画『南極料理人』

これもプライムビデオの中の一本。

第三十八次南極越冬隊で調理係となった西村を中心に、南極での一年を描く。

タイトルからも分かるように作品のテーマは食事。けれど食事を主軸に据えながらも隊員ひとりひとりのストーリーが作品中に散りばめられていて、群像劇とまではいかないまでも個の立った素敵な映画だった。

流石に全員のバックグラウンドを描き切るには尺が足りなかったのか、人物描写が足りないと感じる箇所もあって、そこは残念。

だがそれを差し引いても隊員たちの動きや感情の起伏は等身大で納得がいくものばかりで、十分に一つのキャラクターを劇中に見出すことが出来る。自分としては俳優の演技力(自然体を演じるという点も含め)を垣間見た作品だった。

ハイライトは何といっても食事シーン。全員が何もしゃべらず無心に掻き込むシーンが意識的に多用されているように思ったが、咀嚼の音やむせる音が生生しく響く。これが非常な効果をもって、食べるという行為を見せつけてくれていると感じた。生きるというのは食べるということなんだなあ。零下70度、日々の重労働、逃避不可能の極限状態で活動するからこそ、生きるための食べるという行為が際立つ。

最初の朝食シーンと最後の朝食シーンの差はかなり印象的。お互いに気をつかわなくなっているというか、一年間一緒に生活してきたことが見て取れるようになっていると思う。

うーん、やはり考えていることを文章にするのは難しい。

映画『オーケストラ!』

アマゾンのプライムビデオは中々すごい。小遣い程度の年会費でかなりの本数の映画が見放題なので、ツタヤとかに借りに行くのも億劫な出不精な自分にとってはとてもありがたいサービスである。

今日の日記は、そんなプライムビデオの中の一本『オーケストラ』の感想。

ボリショイ劇場の清掃員として働く元指揮者・フィリポフが、かつてのメンバーと共に正規のオーケストラのふりをしてパリに乗り込む、という筋。

話の核心にかなり関わってくるのがロシアの共産党時代の話、それもブレジネフによるユダヤ人迫害というセンシティブなものだが、これは終盤でようやく明かされる。ただし思い返すと伏線は何ヵ所かに張られていた(オケメンのサシャやユダヤ人親子など)。指揮者の一発逆転劇と過去のポリティカルな文脈が上手く合流した脚本だなあと感じた。

ただし、ユダヤ人迫害がキーになる割には当のユダヤ人の描き方が諧謔的だった。金稼ぎに熱心なユダヤ人親子がその際たるものだけど、あれはコメディとして許容範囲なのだろうか…全編がコメディだから違和感ないのかな、たぶん。

クライマックスは最後のチャイコンの演奏。ソリストの演奏に失ったかつての仲間の俤をみたメンバーたちが、究極のハーモニーを奏でる。ソリストの出生の秘密も、彼女がソリストに選ばれた理由も、すべてをコンチェルトの演奏が明らかにしていく。映画中の全てのストーリーがこの演奏に収斂していくようで、圧巻のラストシーンだった。やっぱり邦題は原題通り『コンチェルト』にすべきじゃないかなあ。

最後に、メラニーロランがすごくかわいかった。

卒論の口述試験が終わった

自分が考えていることはなかなか思うように文章化できない。というわけで日々の雑感をここに書いて練習することにしました。

 

最初の記事は卒論の口述試験について。

 

今日は卒論の口述試験があった。僕の卒論執筆は8月で一回大きく挫折しており、そこから考えると自分でもよく完成にこぎつけたなあと思う。

卒論完成のきっかけになったのは、何気なく眺めていた史料がメインで扱っていた史料のある箇所とまったく一致する、という本当に小さな発見だったけれど、あれがなかったら今頃は留年の手続きをしていたことだろう。

ともかく、卒論の口述試験について。8月の二の舞はすまいとテーマをかなり小さく絞ったのが功を奏したのか(8月時点でのテーマはあまりに漠然としていた)、提出した卒論はコンパクトながらも明晰であるとのお言葉を副査から頂いた。一方主査の先生からは「あまりにコンパクトにまとまりすぎたね」みたいなことも言われた。史料をもっと注意深く読むようにとの指導も。反省反省。

それでもそれほど厳しいことを言われず、フルボッコにされる覚悟で口述試験に臨んだ自分としては拍子抜けだった。勿論安堵もした。屠所に向かう羊の気分だった口述試験前とは随分な気分の違いである。

とりあえず肩の荷が一つ降りたので(とはいえまだ2つほど乗っかっている)、今日ぐらいはゆっくり休もう。明日からまた図書館通いだ…